競走部監督ブログ 

明治大学体育会競走部監督園原健弘のブログ

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スポーツの価値?日本選手権20KM競歩:競歩に何を求める?

久々の更新となります。

2月21日(日)神戸六甲アイランドにて第104回日本選手権20KM競歩大会が開催されました。結果は以下の通り

 

古賀友太 1:21:55 9位

濱西諒  1:22:34 10位 自己ベスト

村尾宥稀 1:24:41 16位

 

 

目標には少し届かない成績。

優勝した山西選手は世界チャンピオン、2位に高橋、3位の池田と、現在の世界1,2,3位と言える選手達です。

古賀の目標としてはこの一角を崩しての3位以内。スタート直後から先頭集団を4人で形成してレースは進めましたが、力及ばず上位3名との力の差を見せつけられました。

濱西はやっと20Kmのレースをまともに歩けたレース、合格点。

村尾は学生最後のレース、試行錯誤を繰り返した4年間、よく頑張った。

それぞれ反省点、課題を明確にして、次に向けて動き出しております。

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リアルで会う事は大切です。生でしか感じられない事。雑談の中で出てくる貴重な情報、本音。

先般の森さんの発言やその後の新組織委員長人事など流れを見たり、現場で色々な方とお話しさせて頂く中で、スポーツの価値は?競歩とは?みたいな事をうわべではなく真剣に考えだしました(今までも考えておりましたが)。

 

日本競歩、世界でNo1~No3の力がありながらも、その価値が認められない。認められないという言い方をもっと簡単に言うと、人気がない。実力は認めてはいるけど、興味がない、見たくない。あるマスコミの重鎮が「競歩の記事はアクセスが少ないんですよね。こんなに強いのに。」と。

 

現代のスポーツは「見てくれる事」が大切。やることよりも見ていて楽しい。見ていて興奮する。見ていて心地よく感じる。共感して応援出来る。この価値を高める努力を競歩界はしてこなかった。強くなれば見てくれる、人気が出る。と。

三浦コーチが「政治家さんの後ろにくっついて成長して来た経緯もあって、内側にいる私たちが外側の人たちを巻き込んでいく力をつけてこなかったところもあります。」と語っていました。内と外、両方の立場にいた私は本当に恥ずかしながら「その通り!」と。強化のみが種目繁栄の必要十分条件と思っていましたから。

 

競歩は イタリア、スペインなどのヨーロッパ勢が弱体化するとともに種目の存続も危ういような状況で、種目の距離変更も決まりました。テレビ的には2時間程度で終わる。男女同じ種目が並び立つ。がオリンピック種目としては必須。

 

競歩発生の起源は諸説ありますが、軍事教練の一環で発展したとも言われています。また車などがない時は長い距離を日常的に自分の脚で歩いて移動するニーズは非常に多く、特には伝令のような通信機能を人間の移動によって得ていた時代には、とても重要な資質と評価されていたのでしょう。

オリンピックでもマラソンより長い最長の距離(50Km)を競うことに意味があると、個人的には思っておりましたが、パリ五輪からは35Kmになりそう。

こうなると競技そのものの起源からの価値ではなく、必須である「見られる種目としての価値」、プラスαを提示しないと、生き残れそうもありません。

 

視点を少し拡大すると、学校の部活や大学体育会もスポーツ(自主的・遊戯性が大切)というより、集団的規律を求められたり、矛盾や理不尽を飲み込んで指導者(リーダー)の言う通りに動く人間の養成所としての機能が大きかったでしょう。まさに構想と行動の分離を求められた中で日本のスポーツは発展してきた歴史があります。

 

その過去は否定するものではなく、高度経済成長期は、とにかく何も考えずリーダーの言う通りに動け!が求められ、その通りに動いていれば自分の生活も良くなり、経済や社会も発展してきたのでしょう。その時代の忠誠的な行動が大きく評価される時代でした。そんな人材を作るのに体育やスポーツは使われていたことは事実でしょう。そしてその時代では非難されるようなものではなく、とても崇高で素晴らしいプログラムであると評価されていたと思います。

 

そんな考えや行動は我々の中にまだまだ残っています。残っているというより、圧倒的価値観としてまだ存在しています。ただ、今はこれじゃない!と分かっていても実際に行動出来る人、無意識に行動してしまう人。がいます。

下の写真は、練習後の古賀と私の会話している風景です。説教している訳ではありませんが、こんな感じです。現実はこの写真のイメージではなく、フラットな組織と思っていますが、お互いに染み付いている部分はあります。ただ個人的には「いつも上から目線だよね。」とは言われますが。

現役の時にメキシコで合宿していると、メキシコ人が我々がコーチに直立不動で指示を受けている姿を見て、面白おかしくマネして来ました。彼らには違和感があったのでしょう。

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これは、体育会のみならず日本の社会全体を無意識に覆っていると思います。

先般の森さんの発言やその後の組織委員長人事などもまだまだその名残があると思います。狭い組織や価値観の中でNO1になることだけではなく、多方面での経験や実力があり、多くの価値観の存在を知って、今何を選択するべきなのかを持った人。が必要とされる時代でしょう。

 

 

スポーツの価値

 

「我々の頑張る姿を見せてみんなを勇気付けたい、元気を与えたい。」などと偉そうに言ってきましたが、実は勇気や元気をもらっているのは我々の方で、なかなか「本質的にこれだ!」という価値を見出せないでいます。

 

ひとつは映画やドラマ、舞台のような、非日常を感じさせるようなコンテンツを提供すること。価値観が多様化する中で、出身地域や所属で連携意識が結ばれ連帯感や共感が生まれること。このくらいは想像できます。

 

さて競歩は?

オリンピックレベルになれば「日本」というくくりで興味も出るでしょうが、平時ではどうやって価値を創造するのか。健康、地域作り、この辺りで何か価値を創造出来ないか、三浦コーチと模索し始めました。

 

箱根駅伝という圧倒的な成功事例に近くで関わりながら、その成功をなかなか他に転用出来ていない現実。明治大学体育会競走部は総合陸上競技の中で箱根駅伝を捉え、

豪副監督も、佑樹駅伝監督も、駅伝の強さで競走部全体を底上げしたいという強い意識を持っています。今年度はこのコロナ禍の中で「スポーツの価値」存在意義などが問われて一年でした。

 

とてもいい環境とスタッフ、選手、関係者に恵まれているの色々考えて動いて行きます。